昭和50年03月19日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心の稽古をしに来るのである。よく稽古をして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげは我が家で受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来る訳に行かぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来る事は出来ぬ。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。」
ここへ参って、信心の稽古をさせて頂いとかなきゃならん。それもまめである時。平穏無事である時、本気で信心の稽古をしなければならん。それこそ尻に火が付いた様に、なにか難儀な問題が起きたり、困った事になって慌てて出て来ると言った様な事では、本気の信心の稽古は出来ん。
まめな時ですね。言うなら平穏無事である時こそ、愈々有り難い信心を身に付けて行かなければならない。昨日午後からの奉仕をしておる時に、一月に一遍か二月に一遍ぐらいしか参って来ない、福岡のいわゆる信者です、なにか嫁さんです。深刻な顔して参って来た。久し振りに参って来た。今日は先生に教えて頂きたい事がある。実は姑親いわゆるお母さんと討論、言い争いをした。こういう場合に、私はどういう心持になったなら良かろうかと言うのです。
アンタどういう心持になったらちゅう、金光様で言やあ和賀心になれと仰るんだから、和賀心になる事よりないけれども、あんたん事時々どん参って来て、解る筈はなかち、私が。お母さんが創価学会を熱心な信心をしなさる。私は金光教の信心。ほりゃ金光教の信者と言うて、二月一遍か二遍どん参りよってから、その本当の事が解る筈がない。又本当の事を教えても、なら解る筈もない、頂ける筈もない。
金光様の御信心はもう何時の場合、どんな場合でも言わば答えが和賀心、和らぎ賀ぶ心を目指すと同時に、それを目当てにして信心をするのだから。どう言う例えばお母さんが、まあ険悪な事を言われても、和賀心で受けたら何でもない。返って有り難い。もうそれより他はないのだからね、あんたが事信心の稽古にも通うて来んで、そして何か一言二言を聞かせて貰うて解ったといったようなことで、解る筈がないのだ。
と言うてまあお取次ぎをさせて頂いておりましたら、こういうことを頂いたんです。隙間風ニセ掛け軸は揺れ易くという。隙間風、偽掛け軸は揺れ易くと。まあ隙間風でも入る位なお家ですから、まあ、大した家じゃないでしょう。だから言うならばその偽掛軸で丁度いい位な事でありましょう。例えばまあ、まあ一流の画家なら画家。本当な絵と言うたら随分と金がかかる。例えば横山大観なら、横山大観の軸。けれどもそういう良い物であれば、立派なものであればある程、偽物が多い。
本当な物は言わば値打ちもあるだけではなくて、高いのだからあなたの場合は、その偽掛軸で丁度いい、今のあなたの心の状態は、もう隙間風に言わば揺れ動いておる状態だ。だから本当なものがね、本当なものが頂きたいならばね、矢張り本当なものを目指さなければいけない。それをお道では真の信心と言う。真の信心とはね、本当にね、言うならばただここへ参って、信心の稽古をしとけと仰るが、ただ参るだけ拝むだけで大した稽古にゃならん、教えを頂かなければ。
しかもその教えを、確実に確信を持って教えて貰う先生に付くより他にないんだ。中途半端な事を得て、中途半端な教えを頂いたんでは、おかげも矢張り中途半端になる。本当な事を目指さなければ。又本当なおかげを頂いて、現しておられる信心を頂かなければいけない。教祖のお言葉を借りるとね、あれもおかげであった、是もおかげであったと解る様になると一人前の信者、本当の信者じゃとこう仰る。
言わばあれもおかげ、是もおかげとお礼を言わねばならない事に、あなた方は討論をしたり言い争いをしたり、しかもお母さんと言い争いをすると言う事は、もう言語道断です。しかも金光様の御信心の橋に席を置いておるのだから。それこそ金光様の御信心は、例え相手が創価学会であろうが何であろうがです。そこで討論になったり喧嘩になったりする様な事があって良かろう筈がない。
先ずは自分がね偽物である事、又は自分の心の隙間風とでも言うか。自分の心の破れから相手を眺めておる様な状態なんだ。そりゃお母さんはもう創価学会の信心をあげん熱心にしなさるけれどももうロクな人じゃない。あんな事を言うたりあんな事をしたりしてと言うて、お母さんの足元ばっかり見てる訳なんです。んなら自分な金光様の信心しとるけん間違うとらんかと言うと、んならとにかく自分と言う者を見極めないで、自分と言う者を見ないで、相手の言うならば非をばかりを探したり見たりして。
しかも創価学会の信心しなさるのにというような見方をしておる所に間違いがある。言うならば、自分の心の破れから相手を覗いておる様なもんなんです。ある嫁さんがね、向かえの方ば、自分方の破れた障子の隙間から、こげなまあ向かえの嫁さんなびったりである。もう本当に障子だん張りゃ良かとにとこっちから見よった。自分方の障子の破れからこうやって覗きよる。自分の事はそんなに解らん。人の事ばかりね。そこに偽物である自分を先ず自覚する事だ。
同時にそれこそ隙間風も入らん程しに、自分の心の破れを先ずは改める事なんだ。隙間風偽掛軸の揺れやすく。これが随分堪えたらしい。時々どん参って来てん解らんと、私は言うたけれども、実は本当に解ったという顔をして、もう来た時と帰る時には全然人相が変わる様な表情で帰りました。お母さんではない事が解った。自分自身である事が解った。しかも、自分が本当な者でない事が解った。
だからいわゆる真の信心を目指すとか、本当なものを目指すという信心姿勢を取ってからの、ここへは信心の稽古に来ると言うのですから、キチッとした一つの手本をね、間違いのない教えを頂いて、それに基づいての信心の稽古でなからにゃ。しかもさあ困った時、難儀な時というのではなくてです。常日頃平穏無事である時、いつもまめないやまめな時とこう仰る。と言う事はね普通普段にという意味なんです。
子供がある者やらは日庸取りやらは、そう毎日そうそうと出て来る訳にはいかんというふうに、ここに教えておられますから、はあ忙しい時は参らんで良かつばいのちゅうごたる事ではいけんと言う事なんです。なぜかと言うと平穏無事の方が多いからよ。何を置いてもしゃっち参って来るちゅう事じゃない。けれども平穏無事でも本当におかげの中にある時に本気でここに参って、信心の稽古をしておけと言うのであります。
今朝私御神前で御祈念中にあの、三橋美智也と言う事を頂いた民謡歌手ですかね。あの人は自分で三味線を弾いて大変三味線も美味いです。自分で三味線を弾いていわゆる弾き語りです。自分で弾いて歌う訳です。同時にんなら後ろの方へバンドがおって、そのバンドに合わせて言うならその音楽に乗って歌いもするし、同時に又は民謡なんかは自分の弾く三味線に合わせて歌を歌うのが、あの三橋美智也だと私は頂いて感じた。
そして私は改めて新たな事を、又解らせて頂いた様な気がしたんです。いつも頂く様に、それこそ天地自然が奏でて下さる一つのリズムというものに乗って行かなければいかん、日々がね、というのはです、私は後ろに並んでおるブラスバンドならバンドのそれに乗って、歌を歌う様なもんじゃないでしょうか。浪花節をんなら語る人がです。それこそ陰の三筋に乗って歌を歌う。だから思わず自分の声だろうかと思う様な良い声も出たり、調子よく歌も歌える、語りも出けるという訳なんです。
だからそれと同時にです、私は自分の心言うなら弾き語りです。自分の心から湧いて来る一つのリズムというものに乗って行くという、この二つがなされなければいけない。私は此処ん所、改めて解らせて頂いた気がするんです。成程リズムがあるけれども、そのリズムを言うならばキャッチしきらない、受け止めきらない解らない。あまりにも偉大な大きな、言うならばリズムですから。天地が奏でて下さるという。そこで自分自身がね、自分で弾いて語らせてもらうという、そこに稽古がいるのです。
ただ三味線弾きさえすりゃ良い歌が出るていうことじゃない。先ずは自分のその三味線の方の手元のところの調子を合わせ、そして弾いて。で、それに乗って自分が歌う、又は語るのです。それを弾き語りと言う。その弾き語りが出ける稽古をしなきゃいけないということであります。例えば虚無僧が尺八を吹いて修行してまわる。まああれはあれして貰って歩きよると言やあそれまでの事。あれは矢張り私は修行してまわる、本当の虚無僧ならば、言うならば修行してまわるのでしょう。
角かどに立っては、言うなら自分の吹きならす尺八の音色に、それこそ聞き取れながら修行してまわる。自分の心から湧いて出る所の、有り難いとか勿体無いとか。相済まんというようなです、もう自分の、心から湧いて来る、そのリズムに乗ると言う事が、私は大事なんです。今日ここん所はこう初めて頂く感じですね。だからリズムというものは、外にあると同時に、自分の心から湧いて来るものと、一つにならなければいけないと言う事。場合に依ってはです。
自分の此処例えば、普通で言うならどんなになさけない思いをする時であってもです。成程情けない。情けないけれども、有り難いというものが湧いて来るのが信心なんです。叩かれれば痛い事は間違いない。その痛いけれどもです、神様がこのようにして、鍛えて下さるんだ、解らせて下さるんだと思うたら、泣かずにおられんと。神様が此の様にして育てて下さるんだと思うたら、有り難涙がこぼれて来る。そういうリズムに乗った生き方というものを身に付けなければいけない。そこに稽古がいるんだ。
尺八なら尺八でもです、矢張り吹きならう為には、言わば尺八と一尺八寸のあの竹から、どうしてあんな良い音色が出るだろうかと、こう思う。たった三筋の糸でどうしてああいう音色が出るだろうかと、例えば三味線の場合なんかは思う。その稽古が先ずは出けなければいけない。そこん所がね言うならば、此処には信心の稽古に来ると言う事は、そう言う事を稽古して帰る。初めて参った人がです、はあ金光様の信心っちゃ有り難いなと、御教えが素晴らしい。
一週間も参るとです確かに人相が変わるです。人相が変わると同時に、自分の周辺のおかげの状態が変わって来るです。心が変わるからです。そして今まで当たり前の様に思うておった様な事柄の中にも、有り難い事じゃな、勿体無い事じゃな、今まで知らぬ事とは言いながら、相済まん事であったなあという心から湧いて来るお詫びの心も生まれて来る。そういう心に乗って相済まんとか有り難いとか。そういう心から湧いて来る、その心に乗って日々の御用が出けるのですから。
それこそはあ今日も又こげな仕事せんならんと言うなら、もう疲れ果てるのだけれども。そういう相済まんとか、有り難いとかという心で御用がなされる所に、それこそ朝の清々しさ昼の忙しさ、夜の有り難さと言う様な、充実した日々を過ごす事が出けるのです。自分の心から湧いて来る。又は外から起きて来るところの天地が奏でて下さるリズムと、それと是とが一つになって、有り難い日常が出ける様なおかげを頂く所に、信心っちゃただおかげを受けるから有り難いではなくてそういう信心が身に付いて来る。
言うなら、三味線なら三味線を弾き習う。尺八なら尺八を吹き習わせて頂く。その自分が、吹き鳴らす自分が弾き鳴らすところに音色に聞き取れながら、日常生活が出けるて、こんな素晴らしい信心生活があるかと、私は思うです。私は金光様の御信心はそこまでの信心を進めて行かなければいけないと思う。様々な難儀な例えば痛い痒い思いをする様な事がありますけれども。先ずは自分の心の隙間風を、先ずは知らなければいけません。同時に自分が偽掛軸である事を知らなければいけません。
ほんなもんじゃない、ニセモンだという自覚。そこに我屑の子の自覚が出けて来るのです。はらあもう親先生はもういよいよほんなもんじゃろう、ああいうおかげを頂きよんなさるから。とまあ人は言うかも知れん。けれどもなら私自身としてはです、本当にその隙間風に私自身もです、本当に相済まん事だなと、ほんなもんでない証拠だと、自分自身に思わせて貰う。
言うならばいつも屑の子われの自覚に立っておる。だからこそ天地の親神様はね、本当に屑の子の自覚に立った氏子の上に、それこそ屑の子ほど可愛いという念が、働きが生まれて来る。あの屑の子ほど可愛いというのは、間違えて頂く人がある。自分自身の悟りの境地なんだ。本当に何十年信心させて頂いておるけれども。この様な心の状態。いわゆる、隙間風の度々にそれを思う。ほんなもんでない証拠愈々、本当なものを目指さなければ。こういう私を神様がようこんな御用に使うて下さる。
そういう言わば屑の子である私を、ようもこのようなおかげを下さると有り難いものが倍化してくる。いよいよ深い有り難いものが湧いて来る。相済まないという心は、もういよいよ掘り下げられて来る。そこから湧いて来るもの。浅い井戸からはそれこそ冬は冷たい、夏は生ぬるい水しか出ません、同じ水でも。けれどもそれが深く十間も十五間も掘った井戸からは、それこそ夏は氷のような水が湧いてです。
冬はそれこそお湯の様な温かい、水そのものには変わりはなくてもです、そういう氷は夏は氷の様な冷たい水が、冬はお湯の様に温かい水を使う事が出ける。私共の心もですとにかく我屑の子である所まで自分自身を解らせて貰、掘り下げさせて貰うから、深い喜びが頂けるのです。そこから何とも言いようのない程しの音色が生まれて来るのです。その音色に乗って私共が活動する。そういう御用であって、初めて本当の御用が出けるというのではないでしょうか。
まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけという事は、平穏無事な時に言うならば。特別取り立てて、あれこれと願う事のない、ただお礼だけ申し上げる事だけと言った様な時にです、本気で信心の稽古をしておけ。しかもここへ参って、信心の稽古をする焦点というのは、どこまでも和賀心である。それを言うならばです本当な信心とは、本当なおかげが伴うもの。
真の信心には真のおかげが必ず伴うね、そこん所に自分の心の状態をですね、正しながら。はあまだほんなもんでない証拠に、おかげが本当な事になって来ないんだというふうにですね、本当なものを愈々目指させて貰うてですね。偽掛軸からね本当な掛軸とでも申しましょうか。本当なものと言う事なんです。結局本当なものを目指しての信心でなからにゃならない。おかげを頂く為に稽古に来よるというのじゃない。本当な信心真の信心を解りたい。その一念が言うならばここには信心の稽古に来る所であり。
お徳を受け力を受けるという信心は、本当のおかげを目指す所から、信心を目指すと言う事になって来る時に、本当な事になって来るのだと私は確信しております。今日頂く成程天地が奏でて下さる所のリズムも大事。同時に自分自身の心から、涌き出て来る一つの喜び。又は相済まん。言わばお詫びをする心お礼を言う心。そういう心がしかも深ぁ居どころから湧き出て来る、そういうリズムに乗った日々信心生活をさせて、信心の稽古をさせて貰わなきゃいけません。
どうぞ。